
ちょっとライトにわたしの死生観。
こんにちは、ばゆぴっぴです。
わたしの座右の銘は『どうせ(みんな)死ぬ』です。
コロナ禍で人の死がより自分に近付いてきたような気がします。
ちなみに、認知症は死の恐怖から逃れる為にあるらしいです。知らんけど。
わたしは、生きるという事は死ぬ瞬間までの暇つぶしだと考えています。
死ぬまでに用意されたただの自由時間だから、どんな使い方をしてもいいと思っています。どんな使い方をしても、誰かに干渉されたり否定される筋合いはないんじゃないかとね。
自由時間といっても、『やりたい事だけをやる』というのは駄目ですが、『やりたい事をやる』という意思は大事なんじゃないでしょうか。
だって、みんなどうせ死ぬじゃないですか?最後はどうせ死ぬのにどうしてあんなに周りのことを気にするんでしょうか?みんな死ぬのに。
本来の自分を取り戻した気がするお話にも繋がる部分はありますが、どうせ主人公は自分なので他人に強要されるような息苦しい生き方はしたくないのです。
何があってもわたしはわたし。わたしはわたしとして生きてきたので、わたしいがの生き方やモノの見方は知りません。
わたし以外のことは知らないし、哀れだとか可哀想だとかどれだけ言われても一生ピンときません。だって分からないもん。
『君ははこれがないから可哀想だよ』とお節介を焼いてくる人だっています。そんなやつはみんな黙れ。
体質、病気、育ってきた環境、性格、特性、他にもありますね。自分の努力で変えることが難しい部分を可哀想や哀れという言葉で否定していいのか?
だから周りの人間に生き方や考え方なんかを否定される筋合いはないの。わたしはわたしでいいし、推しは推しでいいし、どうせみんな死ぬんだから好きなようにさせて欲しいですね。
あれこれ書いてはみたけど人間ってほんとにお節介だな笑。
お読みいただきありがとうございました。